「火をつけてくださる?」
時刻は23時30分。
バイト先から自転車で帰宅している最中、僕は女性に声をかけられた。
「火がないのよ。あなた、ライター持っているかしら?」
「ええ、まぁ」
「良かった。じゃあそこのベンチにいきましょう」
何故、火を付けるだけなのにベンチへ行くのだろうか? 天気予報で今夜は雪が降り寒くなると言っていたし早く帰りたいんだけど…。そう思いつつ、僕は言われたとおり高架下の公園にあるベンチに腰をかけ、ライターに火を灯した。
カチッ
「どうぞ」
「ありがとう。あなたは何ていうの?」
「若居です」
「わかちゃんね。私のことは純ちゃんて呼んでね」
「あ、はい」
「わかちゃんは煙草を吸わないの?」
「はい、このライターは夏に花火をした時のものなんです」
「そう。丁度良かった。」
彼女が咥えた煙草に火を付けた時、僕は違和感を覚えた。しかし、まだ理由が分からない。一体この感覚は何なのだろうか? こんなに不思議な雰囲気を纏った女性とは出会ったことがない。
火を付ける役割を終え、だんまりと遠くのビルを眺め続けるしかなかった僕に、彼女が話を降ってきた。
「私ね。オカマなのよ」
あんたオカマかよ。不思議な雰囲気はただのオカマオーラだったのか。
というかオカマと初めて会ったよ。
暗かったのもあって全然気付かなかった。
服装って大事なんですね。
「今年で53歳なの」
53かよ。いや53だわ。よく見たらこの人老けてるわ。僕の目は節穴かよ。
もう自分の感覚を信じられない。
ところで、この人はどのタイプのオカマなのだろうか?
好きな人は男性? 女性? 両方?
「さっきまで彼氏の家にいたのよ」
男だ。
「髪を切ったことを褒めてくれたの」
純粋に心が女性な人だ。
「楽しかったわ〜」
楽しかったのか。
「あなたも今度こない?」
何だその誘いは。
「きっと彼氏も喜ぶわ」
どういう感情だよ。
「でも今日は遅いから明日ね」
僕、そんなに行きたいオーラ出てる?
というかさっきから太もも触るんじゃないよ。
「あなた、彼女はいるの?」
「えぇ、いますよ」
「そっか」
「じゃあ彼女と来なさい」
彼女来てもいいのかよ。4人で楽しくUNOでもやるの? 正月のおじさんか。
「…どうしたの? 彼女とうまくいってないの?」
「いや、そういうわけでは…」
「伝えたいことは、しっかりと言わなきゃダメよ。察するなんて、男と女じゃできないの。わかちゃんはこれからどうするの?」
「学校を卒業したら東京で仕事をする予定です」
「彼女は?」
「彼女は…。地元へ行きます」
「遠距離ね。せっかくの縁だから、私が長続きする秘訣を教えてあげるわ」
「それはね、恋から愛へ切り替えることよ」
愛…
「恋の延長に愛は存在しないわ。恋が終わる前に、愛を育てなさい。愛はね……」
当時付き合っていた彼女に対して一時間ほど愛のレクチャーを受けた僕は、次のステップへ進めるという自信が湧いてきた。
「わかちゃん。電話番号教えて」
「080-xxxx-xxxxです」
「じゃあまた何かあったら連絡してね」
満足そうな純ちゃん。
「今日は楽しかったわ。本当はライター持ってたけど声をかけてよかったわ。またね」
そう言い残して、純ちゃんは闇の中へと消えた。
もしかしたら、オカマの方が恋愛について深く理解しているのかもしれない。
性別を、本能を、いくつもの障害を超えた愛。
53歳の純ちゃんは、僕の100倍くらいの経験があるのだろう。
授業料を払いたいくらいだったが、太ももを触らせていたのでまぁいいだろう。
ここでふと思ったことがある。
―もし、あのとき僕に彼女がいなかったら、どうなっていたのだろうか?
また異なった未来が訪れていたのだろうか?
例えばこのように―
「彼女とは…。別れました」
純ちゃんは一瞬だけ、戸惑いの表情を浮かべた。
「全部僕が悪いんです。彼女がいることを当たり前だと思っていた。感謝の気持ちが足りなかった。いつの間にか、好き勝手に振舞っていた…」
言葉にするたび、抑えていた気持ちが溢れてくる。
「僕は、サークルのライブがあることを大義名分として、彼女に会わずギターの練習ばかりしていたんです」
呆れられた理由は分かっていた。僕が、彼女に対して怠けていたからだ。
大丈夫だろうと思っていたからだ。
「もう誰も好きにはなれません。夏に打ち上げた花火と同時に、感情が消えてしまったんです。空っぽなんです。何も入っていないんです。血も、心も、魂も」
純ちゃんは何も言わない。
オレンジ色の街灯に照らされた公園には、風の音、車の音、工事の音が響いている。
そのまま1分ほど時が過ぎた頃、純ちゃんが口を開いた。
「あなたは私に似ている」
僕は言葉が出てこなかった。困惑の表情を浮かべる僕に、純ちゃんが語りかける。
「昔は今と違ってオカマに対する理解が少なかったわ。学校ではよく虐められるし、先生も助けてくれない。だから私は仮面を被ったの。本当の私が出てこないように」
顔は笑っているが、明らかに無理をしている。
「仮面を被った生活は快適だったわ。だから、社会の中で生きていくには少数派の私が黙っていればいいんだって、そう思ったの」
純ちゃんは遠くの空に浮かぶ暗雲を見ながら話し続ける。まるで過去の自分に語りかけるように。
「でも、いつか限界がくるわ。仮面の下は空っぽになったと思っていたのに、熱く叫びだすの。このまま私を殺す気かって。驚いたわ。人の意識ってこんなにも強いなんて、思っていなかった」
力強く、確信した表情で続ける。
「あなたも今、辛い想いをしている。そうでしょう? その心の痛みは、あなたの本心と現状との乖離によるものよ」
風が吹く、一呼吸の間。
「だから――」
「あなたの心も、空っぽになんかなっていない」
―その瞬間、僕の世界から音が消えた。
こんなにも静かだったのか。ずっと動いていたエアコンが突然停止した時のように、ノイズが消えて初めて気づく静寂さ。
これなら、小さな叫びも聞き逃さない。
僕が望んでいるものは―
「すいません。僕にはここは静かすぎます…。一人じゃ生きていけません」
純ちゃんは悪戯に微笑みながら、小声で言う。
「それじゃあ、私の音もあげるわ」
彼女の心音が身体を伝って聞こえた。
人のリズムを聞いてこんなに気持ちが良いなんて。ギターでも弾きたい気分だ。
僕は一つの疑問を投げかける。
「愛とはどこから生まれるのでしょうか」
僕の背中を見たまま、彼女は答える―
「キスもしないまま一緒に眠る。それが愛の始まりよ」
オレンジ色の公園には二人のシルエットが浮かんでいる。風に乗って雪がやってきた。
時刻は0時51分。天気予報は半分当たりで半分外れ。雪は降ったが、寒くない。
文章だけならまだしも顔知ってるからだめだこれ。